「引田」という名前はいつからあったのか
引田の歴史を調べていて、まず興味を持ったのが「引田という名前は、いつ頃から使われていたのだろう」ということでした。
古代の讃岐国には、都と地方を結ぶ官道である南海道が通っていました。 平安時代にまとめられた『延喜式』には、讃岐国の駅として「引田」の名が見えます。 つまり少なくとも平安時代には、引田は交通上の一つの拠点として認識されていたことになります。
ただし、古代の道が現在の国道や県道とまったく同じ場所を通っていたとは限りません。 道筋や駅家の正確な位置については諸説があり、現在の地名だけから断定することはできません。
義経、大坂峠、そして馬宿
引田周辺で昔からよく聞く歴史の話の一つに、源義経があります。 屋島へ向かった義経軍が阿波から讃岐へ入り、大坂山を越えて引田へ進んだことは、 『平家物語』にも「讃岐国ひけ田」へ至ったという形で伝えられています。
地元には、現在の馬宿という地名について、義経がこの辺りで馬を休ませたことから 「馬宿」と呼ばれるようになった、という伝承があります。
それでも、現在の大坂峠や馬宿を知っている者にとって、義経軍がこの山を越えてきたという話には独特の実感があります。 地図の上だけの歴史ではなく、実際の山の高さや道の狭さを知っているからこそ、当時の移動の大変さまで想像できます。
引田と阿波を結んだ古い道 ― 大坂峠
源義経が越えたと伝わる大坂峠。 しかし、この峠を歩いたのは武士だけではありません。 遍路、商人、旅人、そして地域の人々――。 古道から明治・大正の道路、国道11号の開通まで、 引田の「東の玄関口」の歴史をたどります。
大坂峠の歴史を読む中世の引田 ― 荘園と在地の人々
源平の時代の引田を、後の戦国時代のように「誰々という城主が治めていた町」と考えると、少し違って見えます。 当時は讃岐国の行政組織や在地の有力者、そしてその後発達する荘園などが複雑に関わっていました。
後世には大内荘の名も史料に現れ、地域には荘園を管理する人々や在地勢力が存在しました。 こうした中世の積み重ねの先に、やがて城を拠点として武将たちが争う戦国の時代がやってきます。
城山と引田城
引田の町を見下ろす城山には、引田城がありました。 海に突き出すような地形で、引田の港や周囲の海上交通を見渡すことのできる場所です。
私にとって城山は、歴史の本の中にある遠い場所ではありません。 生まれ育った町のすぐそばにある、昔から見慣れた山です。 ところが戦国時代には、この城山と引田の町そのものが、四国をめぐる戦いの一つの舞台になりました。
天正11年(1583)― 引田の戦い
天正11年(1583)、四国では土佐の長宗我部元親が勢力を広げ、讃岐東部にも軍を進めていました。 一方、羽柴秀吉の側から讃岐へ入ったのが仙石秀久です。
香川県史の年表では、この年4月、長宗我部元親が寒川郡の田面山に陣を置き、 大内郡の与田・入野方面へ兵を出したこと、そして仙石秀久が再び讃岐へ入り、 2,000余の兵を率いて引田で長宗我部軍と戦ったことが記されています。
ただし、軍勢が通った道筋や戦闘地点を現在の道路へそのまま重ねることはできません。 『南海通記』など後世の軍記、地域に残る伝承、現在の地形を照らし合わせながら考える必要があります。
現在地形から見る引田合戦
現在の地形を見ると、白鳥方面から伊座を通り、引田へ入っていく経路があります。 一方、入野山は山深い地域で、山側から引田方面へ抜ける動きも考えることができます。
与治山と海に伝わる二つの物語
与治山に残る清少納言の伝承と、 引田の海に浮かぶ女郎島に伝わる「おせん」の物語。 子どものころから聞いてきた、故郷・引田の伝承をたどります。
二つの伝承を読む森権平と「伊座中山」
引田合戦について、地元で特に知られている人物が森権平久村です。 仙石秀久に仕え、「仙石権平久村」とも呼ばれたと伝えられています。
徳島県立図書館のレファレンス事例が紹介する郷土資料では、 権平は引田合戦の際、「讃州大内郡伊座中山」で稲吉新蔵人に討たれたとされています。 現在も伊座には権平にまつわる伝承が残り、地元ではよく知られた話です。
ここは引田合戦を考えるうえで、とても興味深い場所です。
中山池は、合戦の時代にもあったのか
伊座から引田へ向かう現在の道筋で気になるのが中山池です。 現在は山に挟まれた場所に比較的大きな池があり、その横を国道11号が通っています。
香川県埋蔵文化財センターの報告では、貞享3年(1686)に編纂された『翁媼夜話』に、 旧大内郡の「中山池」が記され、その一つが旧引田町の現在の中山池と考えられています。 したがって、少なくとも江戸時代前期には「中山池」の名を確認できます。
もし当時も池、あるいは通行を制限する湿地や谷地形があったなら、 伊座から引田へ向かう軍勢の動きにも影響した可能性があります。 しかしこれは、現在の地形から考えた仮説です。今後、古地図や水利関係の記録を調べてみたいところです。
史実、伝承、そして今の地形
地元の歴史を調べていると、「史料に書かれていること」と「昔から地域で語られてきたこと」が混ざり合っています。 どちらか一方だけを見るのではなく、それぞれを分けて考えることが大切だと思います。
【史料で確認できること】
・古代~平安期に「引田」の名が見える
・義経が大坂山を越え、引田へ至ったとする記述
・1583年、仙石秀久と長宗我部方が引田周辺で戦ったこと
・長宗我部方が与田・入野方面へ兵を出したこと
・森権平が「伊座中山」で討たれたとする郷土資料
【地域に残る伝承】
・馬宿と義経の馬休めの話
・森権平にまつわる地域の伝承
・引田合戦の細かな進軍・戦闘の語り
【これから確かめたいこと】
・1583年当時の伊座から引田へ入る道筋
・「伊座中山」が具体的にどの範囲だったのか
・中山池が引田合戦当時にも存在したのか
生まれ育った町だからこそ
いつもの山や道が、
歴史の風景に見えてくる。
引田で育った私にとって、城山も大坂峠も馬宿も伊座も、特別な観光地というより昔から身近にあった場所です。 しかし歴史を調べてみると、その何気ない地名の一つ一つが、千年以上前の道や戦国時代の戦いへつながっていました。
まだ分からないこともたくさんあります。 むしろ「本当はどうだったのだろう」と考えながら、古い記録と現在の地形を照らし合わせていくところに、 地元の歴史を調べる面白さがあるように思います。
これからも新しい資料や地元に残る話を見つけたら、このページに少しずつ加えていきたいと思います。
参考にした主な資料
- 『延喜式』にみえる古代の駅制・引田に関する記録
- 『平家物語』などにみえる源義経の讃岐進軍に関する記述
- 香川県『香川県史 年表』― 天正11年(1583)の長宗我部氏・仙石秀久に関する記録
- 『南海通記』「土佐元親戦引田浦記」ほか、引田合戦に関する後世の軍記
- 香川県立図書館・徳島県立図書館 レファレンス協同データベース「森権平」に関する調査事例
- 香川県埋蔵文化財センター報告書 ― 『翁媼夜話』(1686)に記された中山池に関する記述
※歴史資料には後世に成立した軍記や地域伝承も含まれます。本ページでは、確認できる史料と伝承・推定をできるだけ区別して記載しています。