私の生まれ育った町・引田
大坂峠
引田と阿波を結んだ古い道
今では国道11号を走れば、 引田から徳島県へそれほど意識することなく県境を越えることができます。 しかし、かつて人々が阿波と讃岐を行き来するとき、 その重要な道の一つとなったのが大坂峠でした。
引田の東の玄関口
大坂峠は、現在の香川県東かがわ市と徳島県板野町の 県境にある峠です。
引田から見ると、その向こう側は阿波。 古くから讃岐と阿波を結ぶ重要な交通路として 人々がこの山を越えてきました。
現在の国道11号は海岸沿いを通っていますが、 この道路が整備される以前、 香川と徳島を結ぶ主要な道は山を越えていました。
引田の町 → 馬宿 → 坂元 → 大坂峠 → 阿波
現在の道路とは違う「大坂峠の古道」
大坂峠には、一つの道だけが存在していたわけではありません。
長い歴史の中で道は何度も造り替えられ、 江戸時代以前から使われていた古道、 明治時代に整備された道、 さらに大正期の道路など、 時代の異なる道筋が残されています。
江戸時代以前から人々が歩いた大坂峠越え
明治8年に新しい道路が整備される
さらに新しい峠道へ
海岸沿いの国道11号が開通し、交通の中心が移る
源義経 ― 夜の大坂山を越えて
大坂峠に残る歴史の中でも、 私が特に興味をひかれるのが 源義経の伝承です。
1185年。 平家を追う義経は阿波へ上陸し、 屋島を奇襲するため讃岐へ向かいました。
その途中、義経の一行が越えたと伝えられているのが 大坂峠です。
これは単なる旅ではありませんでした。 屋島の平家に自軍の接近を知られないための、 急を要する進軍でした。
夜の大坂山
今のような舗装された道路も、 街灯もありません。
深い山の中を、 武士たちは馬を連れて進んでいったことでしょう。
夜が明ける前に峠を越えなければならない。
屋島まで、まだ先は長い。
義経本人が、このとき何を考えていたのか。 それを直接伝える史料はありません。
しかし、現在の大坂山の深さを知っている者としては、 この山を夜間に軍勢を率いて越えたという話には、 何ともいえない迫力を感じます。
1185年 讃岐国・引田
夜の大坂山を越え、夜明けの引田へ
山を越え、讃岐側へ下っていくと、 やがて引田の町と海が開けてきます。
『平家物語』系の伝承では、 義経の一行は大坂峠を越えて引田へ下り、 ここで人馬を休ませたと伝えられています。
山を越えた。
讃岐へ入った。
この先に屋島がある。
もちろん、義経が実際にこの言葉を口にしたわけではありません。
しかし約840年前のある早朝、 夜通し山を越えてきた義経たちが 私の生まれ育った引田へ下りてきた。
そう考えると、 大坂峠も引田の町も、 それまでとは少し違って見えてきます。
馬宿に残る義経の記憶
引田には現在も 「馬宿(うまやど)」 という地名があります。
地元では、 義経の一行が屋島へ向かう途中、 この付近で馬を休ませたことが 地名の由来になったという伝承があります。
地名の成立をこの出来事だけで 歴史的に断定することはできません。
しかし、大坂峠を越えて引田へ下りてきた 義経の伝承とともに、 この土地で長く語り継がれてきた話です。
遍路が歩いた大坂峠
大坂峠を越えたのは武士だけではありません。
四国を巡る遍路にとっても、 阿波と讃岐をつなぐこの道は 重要な道の一つでした。
古道には、峠までの距離を示す 丁石が置かれ、 現在もその痕跡を見ることができます。
引田の町にも遍路道標が残り、 長い年月にわたり多くの旅人が この地域を歩いたことを伝えています。
商人、旅人、そして暮らしの道
大坂峠は、歴史上の人物や遍路だけの道ではありませんでした。
引田の魚を阿波へ運ぶ人、 阿波から讃岐へ品物を運ぶ商人、 旅人など、 さまざまな人々がこの峠を越えたと伝えられています。
現在の感覚では、 なぜこれほど険しい山を越えたのかと 不思議に感じます。
しかし当時の人々にとっては、 大坂峠は特別な登山道ではなく、 生活と生活を結ぶ道 だったのでしょう。
讃岐と阿波の国境 ― 大坂峠の番所
江戸時代になると、 大坂峠は讃岐と阿波を隔てる 国境の道でもありました。
この地域には番所が置かれ、 国境を越える人々や物の往来を 管理する場所となりました。
今では県境を車で通過するだけですが、 当時、この峠を越えるということは 一つの「国」から別の「国」へ入ることでもあったのです。
なぜ海岸ではなく、険しい峠を越えたのか
現在の国道11号を知っていると、 一つの疑問が浮かびます。
「なぜ昔の人は、 わざわざ険しい大坂峠を越えたのだろう?」
現在の国道11号は、 引田から海岸沿いを通って徳島県へ抜けています。
しかし県境付近では山が海際まで迫っています。
現代なら山を削り、 擁壁を造り、 必要であれば海側にも道路を構築することができます。
一方、昔の土木技術では、 波を受ける狭い海岸に安定した街道を造ることは 容易ではなかったと考えられます。
これは「大坂峠が使われた理由」を直接説明する史料ではなく、 現在の地形と道路史から考えられる一つの見方です。
そう考えると、 「なぜあんな険しい山を越えたのか」ではなく、
「当時は海岸に道を造る方が難しかったのではないか」
と、現在とは逆の見方もできるのです。
国道11号と、大坂峠の役割の変化
昭和34年(1959)ごろ、 海岸沿いの道路が整備され、 現在の国道11号につながる交通路が開かれました。
これによって、 香川と徳島を結ぶ主要交通路としての 大坂峠の役割は大きく変わっていきます。
それまで何百年もの間、 人々が歩き、馬が越え、荷物が運ばれてきた峠から、 自動車が走る海岸道路へ。
引田から阿波へ向かう道は、 昭和になって大きな転換点を迎えました。
今、大坂峠を見て思うこと
私自身、この地域で生まれ育ち、 大坂山の深さを知っています。
現在でも山の中へ入れば、 「本当にここが香川と徳島を結ぶ主要な道だったのか」 と思うほど険しい場所があります。
そこを義経の一行が越えたと伝えられ、 遍路が歩き、 商人が荷を運び、 地元の人々が日常の道として利用してきました。
このページについて
このページは、文化庁・香川県などの公開資料、 大坂峠に残る史跡・伝承、 そして地元で昔から聞いてきた話をもとに構成しています。
源義経や馬宿に関する話など、 史実として確認できる事項と地域に伝わる伝承については、 できる限り区別して紹介しています。