イシバシ設備 コラム|AIの可能性・続編

AIと仏の教え

人間が人間でなくなっても、
無常から逃れられるのか

前回のコラムでは、 コンピュータのプログラミングから生成AI、 そして現場AI、フィジカルAIへと話を広げました。

人間がコンピュータの分かる言葉を覚えていた時代から、 コンピュータが人間の言葉を理解する時代へ。

その先には、 人間とAIが同じものを見て、 同じ問題について一緒に考える時代が 来るのかもしれません。

では、さらにその先はどうなるのでしょう。

AIと共存し、やがてAIと深く結びついた人間にも、
仏の教えは通用するのでしょうか。

そんなことを考えているうちに、 AIの未来についての話が、 いつの間にか「人間とは何か」「苦とは何か」という 哲学的なところまで来てしまいました。

※ここでは仏教の教義を専門的に解説するのではなく、 AIの未来を考える中で私自身が感じたことを、 一つの思考として書いています。

01

四苦八苦を、AIでなくすことはできるのか

仏教には「四苦八苦」という言葉があります。

生 生まれること
老 老いること
病 病むこと
死 死ぬこと

ここで私は、ふと思いました。

AIやコンピュータ、そしてこれからの医療技術によって、
この「苦」を少しずつ消していくことはできないのだろうか。

たとえば「病」。

AIが膨大な医学情報を扱い、 人間には見つけにくい病気の兆候を見つけ、 新しい薬の研究や治療法の発見を支援する。

さらに医学が進めば、 現在なら治すことのできない病気も、 将来は治療できるようになるかもしれません。

「老」についても、 老化そのものを遅らせたり、 傷んだ臓器や身体機能を補ったりする技術が 発達する可能性があります。

もしかするとAIは、
「病」や「老」を、今よりはるか遠くへ追いやるかもしれない。

では、それが限りなく進んだ先で、 四苦八苦そのものは消えるのでしょうか。

02

それでも「死」は残る

極端なことを考えてみます。

もし人間を完全な状態で冷凍保存できる技術ができたとします。

100年後に目覚める。 1万年後に目覚める。 1000万年後に目覚める。

さらに途方もなく長い時間、 たとえば10の100000乗年というような時間まで 存在を維持できたとします。

現在
1000万年
想像を超える未来
それでも…

それでも、 「永遠」とは違います。

人間を保存している装置にも、 物質が必要です。 エネルギーが必要です。 維持する環境が必要です。

そのどれかが失われれば、 その存在を維持することはできません。

死をどれほど遠くへ先送りできたとしても、
「死なないこと」とは同じではない。

そう考えると、 科学技術が挑戦しているのは 「死の消滅」というより、 「死までの時間を延ばすこと」なのかもしれません。

03

では、AIなら永遠に存在できるのか

人間の身体には限界があります。

それなら肉体を離れて、 人間の記憶や思考を機械へ移せばよい。

あるいは、 人間そのものがAIと融合してしまえばよい。

そんな未来も想像できます。

半導体・機械 AIが動くための身体
エネルギー 計算を続けるために必要
冷却 熱を処理するために必要
情報 記憶や知識を保持する

しかしAIも、 何もないところに単独で存在しているわけではありません。

AIがどれほど高度になっても、 それを動かす物質とエネルギーが必要です。

つまり人間が有機体から離れ、 AIのような存在へ近づいたとしても、 「存在するための条件」そのものから 離れることはできないのではないでしょうか。

04

そこで「縁起」という考えに戻ってくる

ここまで考えたところで、 私は仏教の「縁起」という考え方を思い出しました。

私なりにごく簡単に言えば、 ものごとはそれ一つだけで独立して存在しているのではなく、 さまざまな原因や条件によって成り立っている、 という考え方です。

人間
空気 水 食物 社会 他者 環境 記憶 時間

人間は、 空気がなければ生きられません。 水がなければ生きられません。 食物がなければ生きられません。

心についても同じです。

記憶、経験、感覚、 周囲の人との関係、 身体の状態。

それらとまったく切り離された「私」が、 どこかに単独で存在しているわけではありません。

そしてAIも同じです。

人間もAIも、
さまざまな条件によって、今この状態として存在している。
05

条件が変われば、状態も変わる――無常

条件によって成り立っているのであれば、 その条件が変われば、 当然その状態も変わります。

身体も変わる。 考えも変わる。 社会も変わる。 AIも変わる。

地球も変わる。 星も変わる。 宇宙についてさえ、 私たちは変化の中で考えています。

人間
AIと融合
身体の変化
さらに先へ

人間が有機体という身体から離れることができたとしても、 「変化すること」そのものから離れることは できないのかもしれません。

無常だから世界が変化するのではなく、
変化し続ける世界のあり方を、
人間が「無常」と呼んだ。
06

では「私」とは、どこまでが私なのだろう

ここまで来ると、 もう一つ避けられない問いが出てきます。

人間がAIと融合したとき、
どこまでが「私」なのでしょうか。

人間の記憶を外部へ保存できたとします。

考える作業の一部をAIが行うようになったとします。

身体の一部を人工物へ置き換え、 最後には脳の機能まで少しずつ補助するようになったとします。

身体
記憶
感情
経験
判断
AI

その中のどれが、 本当の「私」なのでしょう。

身体が変わっても私。 記憶が一部失われても私。 考え方が変わっても私。

そう考えていくと、 変わらない「私」というものが いったいどこにあるのか分からなくなってきます。

ここで仏教の「無我」という考え方が、 遠い昔の哲学ではなく、 AI時代の非常に現実的な問いに見えてきます。

07

AIでも消せない「苦」があるとしたら

医療が進み、 病気をほとんど治せるようになった。

老化も大幅に遅らせることができるようになった。

身体を交換しながら、 とてつもなく長い時間を生きられるようになった。

それでも、 もし私たちが、

「もっと生きたい」
「この状態を失いたくない」
「永遠に自分であり続けたい」

と願い続けるなら、 苦は姿を変えて残るのかもしれません。

100年しか生きられない人にとっての「あと1年」と、 1000万年生きられる人にとっての「あと1年」。

時間の長さはまったく違います。

しかし、 「終わりたくない」という気持ちが同じなら、 死の苦しみそのものは 消えていないのかもしれません。

技術は死を遠ざけることができても、
「永遠でありたい」という執着まで消せるとは限らない。

ここに、 科学技術が扱う問題と、 仏教が扱ってきた問題の違いがあるように感じます。

08

もし地球も、人間も、AIもなくなったら

さらに話を広げてみます。

いつかこの惑星がなくなったとします。

人間もいない。 生物もいない。 AIさえ存在しない。

そのとき、 仏教という宗教や経典や言葉は、 当然そこにはありません。

「無常」という言葉を使う存在もいません。

「縁起」と説明する存在もいません。

それでも、
何かが生じ、変化し、
条件が変われば、また別の状態になる。

その世界のあり方まで、
なくなるのでしょうか。

私には、 そこが非常に興味深く感じられます。

仏教が世界を動かしているのではありません。

世界の中にある変化や関係を見つめ、 それを人間が「無常」「縁起」という言葉で 表したのだと考えるなら、 仏の教えは人間だけの話ではなくなります。

CONCLUSION

AIは、仏の教えを古くするのだろうか

最初は、 「AIと共存する人間にも仏の教えは通用するのか」 という単純な疑問でした。

しかし考えていくと、 むしろ逆なのかもしれません。

AIによって病気を克服するかもしれない。

老いさえ大きく変えるかもしれない。

肉体という有機体から離れる日さえ 来るのかもしれない。

それでも、 存在するためには条件がいる。

条件が変われば、 存在の姿も変わる。

人間 AI 星 宇宙
AIは仏の教えを
過去のものにする存在ではなく、

むしろ私たちをもう一度、
「無常とは何か」
「私とは何か」
「苦とは何か」

という問いへ連れ戻す存在なのかもしれません。

AIの未来を考えていたはずなのに、 気がつけば2500年ほど前から人間が考え続けてきた問いに、 また戻ってきました。

もしかすると、 技術がどれだけ新しくなっても、 私たちが向き合う問いそのものは、 それほど変わらないのかもしれません。

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