護身術とは、相手の攻撃から身体を守るための技術。一般にはそのように考えられているでしょう。しかし、少林寺拳法を修練していると、守るべきものは身体だけではないことに気づかされます。
平常心を保つこと。自分と相手の体勢を知ること。先を読み、働きかけること。そして、必要以上に相手を傷つけず、相手をも活かすこと。
道院での修練や指導の場面を思い浮かべながら、少林寺拳法が教えてくれる「本当の強さ」について考えてみたいと思います。
1.護身とは、まず自分の心を守ること
相手の突きや蹴りをかわす。つかまれた手を抜く。必要に応じて相手を制する。こうした技は、確かに身体を守るためのものです。
しかし、挑発されて怒りに任せて手を出したり、恐怖から周囲が見えなくなったりしては、せっかく身につけた技も正しく使えません。
少林寺拳法には「拳禅一如」という教えがあります。心と身体を切り離さず、どちらも修めていくという考え方です。
まず自分の心を守り、制する。その平常心をもって身体を守る。
ここでいう平常心とは、恐怖や緊張をまったく感じないことではないでしょう。そうした感情に振り回されず、今何をすべきかを判断し、行動できる心の状態なのだと思います。
2.虚実の体勢 ― 力の大小を超えて
例えば、握力が非常に強い大柄な人と、細身の小柄な人が向き合ったとしましょう。力だけを比べれば、大柄な人が有利に思えます。
ところが、少林寺拳法の柔法では、力の大きさだけでなく、互いの姿勢、身体の位置、力の働く方向が重要になります。
鉤手(かぎて)による守りの例
相手が手をつかもうとする、あるいはつかんだとき、鉤手を用い、つかまれた手を腰の近くに保って自分の体勢を整える。すると、相手の力が思うように働かなくなり、こちらは次の動作へ移りやすくなることがあります。
そこから手を抜いて離れることもできれば、必要に応じて柔法の技へつなぐこともできる。重要なのは、力任せに引っ張り合うことではありません。
自分の力を十分に働かせ、対応できる状態が「実」。姿勢が崩れ、力を出しにくくなった状態が「虚」。そう考えると、体格の差がそのまま優劣を決めるわけではないことが分かります。
強い力を持つことと、その力を使える状態にあることは、同じではない。
さらに重要なのは、相手が前のめりになり、肩や頭が下がるような崩れは一瞬で生じ、また一瞬で戻り得ることです。その短い時間を捉えるために、繰り返しの修練が必要になるのです。
3.機先を制する ― 待気構えと待ち蹴り
少林寺拳法には「守主攻従」という原則があります。守りを主とし、攻撃を従とすること。しかし、守るとは、ただ相手の攻撃を待ち続けることではありません。
剛法の稽古で学ぶ「待ち蹴り」は、そのことを考えるうえで分かりやすい例です。
待ち蹴りは、ただ待ってから蹴る技ではない
待気構えで相手の蹴りを誘い、相手が蹴ろうとする瞬間を捉えて、こちらの蹴りでその攻撃を制する。相手の攻撃が完成してから、あわてて対処するわけではありません。
構えた時点から相手の行動を想定し、自分の間合い、蹴りの速さ、届く距離を理解して備えているのです。
もちろん、相手が必ず誘いどおりに動くわけではありません。それでも「相手の出方を見るだけ」ではなく、自分から状況をつくるという発想には、大きな意味があります。
- 構えを整える
- 相手の動きを想定する
- 一瞬の変化を捉える
- 必要な行動を選ぶ
機先を制するとは、単に先に手足を出すことではありません。相手より先に状況を考え、自分の行動の準備を整えておくことなのです。
4.相手を制することと、相手を活かすこと
ここで忘れてはならないのが、相手を「制する」という言葉の意味です。
相手を制することは、相手を打ち負かしたり、必要以上に傷つけたりすることと同じではありません。攻撃を止め、危険から離れ、争いを収めることも立派な護身です。
少林寺拳法の「力愛不二」「自他共楽」という教えは、力と、その力をどう使うかという心のあり方を考えさせてくれます。
相手を制する力があるからこそ、傷つけずに済ませる道も選べる。
相手が過ちを省みる余地を残すことも、人を活かすということではないでしょうか。相手を活かし、自分も活かす。その姿勢に、単なる勝敗とは異なる少林寺拳法の護身術としての意味を感じます。
5.平常心は準備から生まれる
どれほど技を知っていても、いざというときにあわててしまえば、身につけた力を十分に発揮できません。
平常心は、ただ「落ち着こう」と思えば手に入るものでもありません。普段から考え、観察し、何度もシミュレーションしておくことが、その土台になります。
道院長が不在のとき
いつも前に立って指導してくださる道院長が出張で不在となれば、誰かが代わりを務めなければなりません。
普段は当たり前のように進む稽古でも、いざ自分が前に立つと「次は何だっただろう」「どう伝えればよいだろう」と迷うことがあります。しかも、自分が判断するだけでなく、ほかの拳士たちを動かさなければなりません。
そこで試されるのは、日頃から道院長の言葉や動きをどれほどよく見ているか、ということです。手順を覚えるだけでなく、なぜそのように指導するのかまで考え、自分ならどうするかを想定しておく。
準備があるから平常心を保てる。そして平常心があるから、準備してきたものを活かせる。
技の修練と同じように、人の前に立つことにも修練が必要なのです。
6.人を導く者に求められる心構え
人を導く立場には、想定していたとおりには進まない場面が数多くあります。子供たちを相手にする稽古は、まさにその一例です。
この前はおとなしく練習していた子が、今日は参加しようとしない。ふざけてしまう子もいれば、集中できない子もいます。
だからといって、いつも厳しく接すればよいわけではありません。反対に、何でも自由にさせればよいわけでもありません。
その子の様子を見て柔軟に接することも必要です。しかし、礼儀や作法を教えるべき場面では、きちんと、時には毅然として伝えることが求められます。
ときには柔軟に、ときには規律に従って。しかも、どちらも平常心をもって行う。
こうして考えると、人を率いることも、相手の動きにただ反応するのではなく、自分から働きかけることだと分かります。
討論であれば論点を示して相手の考えを引き出す。組織であれば、進む方向を示して人が動ける状況をつくる。指導であれば、一人ひとりの力を引き出すために、適切な言葉と姿勢を選ぶ。
それは相手を思いどおりに支配することではなく、相手自身の成長や行動を支えることです。ここにも「相手を活かす」という少林寺拳法の考え方が通じています。
7.本当の強さとは何か
自分の心を制する。姿勢を整え、虚実を見極める。先を読んで機先を制する。必要なときには毅然として行動し、必要のない争いは避ける。
そして、力を持ちながらも、それを自分のためだけに使わない。
少林寺拳法には「半ばは自己の幸せを、半ばは他人の幸せを」という言葉があります。自分が強くなることと、他人のために力を活かすことは、切り離せないのだと思います。
構えや鉤手、待ち蹴りといった技の修練も、道院で前に立って人を導く経験も、根底ではつながっています。どちらも自分を律し、先を考え、状況に応じて行動するための修行だからです。
おわりに ― 己に克つということ
相手に勝つことよりも、まず己に克つこと。
平常心は、何もしないで得られるものではありません。観察し、備え、繰り返し修練する。その積み重ねの先に、ようやく少しずつ身についていくものなのでしょう。
自分の心と身体を守り、相手を必要以上に傷つけず、周囲の人々をも活かしていく。そこに、少林寺拳法が護身の術であると同時に、人を育てる道である理由があるのだと思います。
※本記事は、道院での修練経験を通じて感じたことをまとめた個人の考察です。技の説明は原理を伝えるための例であり、実際の修練は指導者のもとで安全に行うことを前提としています。